日本の聖地100選|宮崎県宮崎カントリークラブ|日南海岸の先駆的なゴルフ倶楽部

2018/10/15 ゴルフトゥデイ 編集部



日本アマ三連覇をはじめ、トップアマとして名を馳せた三好徳行は名設計家でもあった。全20数コースを手がけた三好の傑作「宮崎カントリークラブ」は、日本女子プロ最終戦の舞台を長年飾っている。

宮崎県の日南海岸では、高鍋から青島までの間、約30コースが密集して冬のゴルフリゾートを形勢するが、今から約65年前は様子が違っていた。昭和30(1955)年は花ケ島競馬場内の9ホールが県下で唯一のコースだった。その2年後、カナダ・カップ(現在のワールド・カップ)では日本チームが団体優勝、中村寅吉が個人優勝を遂げ、大きなゴルフブームが到来。この機に日本の方々でゴルフ倶楽部が生まれ、コースの新設が進んだ。宮崎でも、この「宮崎カントリークラブ」の建設へと急ピッチで動き出す。

宮崎空港と海岸線の間の防潮林の中、その松林に囲まれた一帯が適地とされ、コース設計には九州が生んだ名ゴルファー、三好徳行を選び、三好の傑作誕生となる。

三好は福岡の炭鉱経営者、三好徳松の長男として1911年に生まれた。ちなみに名設計家、井上誠一が1908年生まれだから、二人は同世代のゴルファーだった。九州帝国大学では経済学を専攻したが、ここでゴルフと出合い、麻生義多賀の指導で急速に腕をあげ、関西アマに優勝して周りを驚かせた。卒業後は旧植民地の満州国に職を得て日本を離れるが、その後、東京に移住、「霞ケ関カンツリー倶楽部」と「我孫子ゴルフ倶楽部」に入会する。

そして終戦から間のない昭和28(1953)年(会場は川奈ホテル富士コース)、29年(関西の茨木CC)、30年(関東の東京GC)と日本アマに三連覇し、その強さを印象づけた。同時に、所属ゴルフ倶楽部の倶楽部選手権でも、霞ケ関CCでは3連勝を含む7回の優勝、我孫子GCでは5年連続優勝の記録を持つ。巨体の赤星兄弟と違って、体格に恵まれない三好のゴルフは、正確無比のアイアンが売り物だった。昭和30年代に入ってブリヂストンに就職、ゴルフボール製造を担当したが、同時に関心の強いコース設計は続けた。

宮崎CCのコースは、原地形がフラットで単調、大洗CCに似ているが、それ以上に平坦と言われ、ホール毎の変化をどうつけるかが課題だった。まず、当時日本で流行ったツー・グリーンを避け、高麗芝のワン・グリーンとした。“グリーンは一つであるべき”が三好のゴルフ思想だった。日本の厳しい年間気候変化を慮っても“ツー・グリーンは邪道”、コース管理技術の進歩で高麗一本でも可能と考えた。さらに、ドッグレッグ・ホールを交えながら、いくつかのアイデアを活用した。イン部分に3個の砂丘を自然な形状で造り上げ、その上に10番(341ヤード・パー4)、15番(413ヤード・パー4)及び17番(314ヤード・パー4)のグリーンを置いた。

正しい方角から高い球でなければオンは難しい。また、フェアウェイの戦略的な位置に松の高木を残して、立体ハザードとした。圧巻は14番(383ヤード・パー4)。グリーンを狙う第2打を邪魔する形で、フェアウェイの中央に寄せ植えの松がハザードを造る。全英オープン発祥コース「プレストウィックGC」(17番パー4)の有名なマウンド“アルプス”の変形で、ここでは“軍艦島”と呼ぶ。樹木が松中心で単調なため、ホール毎に違った南国の花木を植樹した。1番から、楠、夾竹桃、サボテン、ユウカリと続き、最後が“フェニックス”という具合で、マスターズ会場となる「オーガスタ・ナショナルGC」を連想させる。

文/大塚和徳

●宮崎県宮崎カントリークラブ
・コース所在地:宮崎県宮崎市田吉4855-90
・URL: