ヨネックスのカーボンアイアン|爆発的に売れた幻のヒット作

商品開発はドラマ!!!|今だから言える驚きのストーリー[第13回]

2022/02/08 ゴルフサプリ編集部



ゴルフメーカーの商品開発におけるドラマチックな業界裏話をメーカー勤務経験のフリーライター・嶋崎平人が語る連載企画。今回はカーボンアイアンが主役のストーリー。

GOLF TODAY本誌 No.596/68ページより

ヨネックス株式会社の創業者は故・米山稔氏である。1946年木工製品の製造販売をスタートし、1957年からバトミントンラケットの製造を開始した。今や、バトミントンラケットの世界シェアは他の追随を許さないトップメーカーとなっている。それは東京オリンピックのバトミントン競技でほとんどの選手がヨネックスを使っていることでもわかる。そのヨネックスがゴルフ事業に参入したのが1982年である。

ラケットのカーボン技術を応用した、世界で初めてのカーボングラファイトとパーシモンを一体化したウッドクラブ・CARBONEXを発表した。さらに、1983年カーボンアイアンを発売した。この独創的で、圧倒的な飛びで歴史を変えたカーボンアイアンはどのようにして開発されたか。

当時の事情に詳しいヨネックス株式会社製品開発部副参事の飯泉剛氏からお話を伺った。飯泉氏は1985年ヨネックス入社である。

カーボンアイアンの開発はバトミントンやテニスで培ったカーボンラケットのカーボン技術を生かすかたちで、飛ぶクラブができるはずのとの米山稔氏の強い思いにより、1980年より開発を開始した。「とにかくどこよりも飛ぶクラブ」を開発目標にスタート。

開発の3原則として掲げられていたのは「新素材・新技術・新理論」で、米山稔氏が陣頭指揮にあたり、カーボンアイアンの開発に邁進していった。素材としてカーボンの持つ特性である「軽さ・強度・反発」を利用し、開発目標である必ず飛ぶクラブを達成できると確信し、開発を進めていった。

当時、カーボンとソールを含む芯材がステンレスの複合構造のクラブは市場に無く、この複合構造を確立することに時間を要した。ステンレス鋳造のアイアンと違い、ステンレス芯材に覆いかぶせるようにカーボンプリプレグを1枚1枚張り付け、それを成型する製造方法で多くの工数を要した。ただ、ヨネックスの新潟工場内でこの試作ができる体制だったので、カーボンの自社製造技術を生かしながら試作を繰り返していった。

ソール・芯部分が比重の重いステンレスで、フェース部分が比重の軽いカーボン、当時は重心位置をそれほど意識していなかったが、基本的に低重心で球が上がりやすい構造であった。ロフトも通常アイアンより2度程度立てたものが有力な候補となった。

試作品は、工場にいたシングルハンデの従業員に練習場で試打して評価してもらっていた。ほぼスペックが固まった試作品を練習場に試打にいってもらったところ、なかなか練習場から戻ってこなかった。電話で練習場にどうしたのかと聞いたところ「あまりにも飛ぶので、ついつい打ち続けてしまった。」と、その飛びに衝撃を受けたとのことであった。構造・スペックが決まり、量産へとGOサインが出た。