ゴルフは、どこかで誰かが、いつでも見ているから面白い!

ロマン派ゴルフ作家・篠原嗣典が現場で感じたゴルフエッセイ【毒ゴルフ・薬ゴルフ】第21回

2022/06/03 ゴルフサプリ編集部 篠原嗣典



ゴルフの虜になってもうすぐ半世紀。年間試打ラウンド数は50回。四六時中ゴルフのことばかりを考えてしまうロマン派ゴルフ作家・篠原嗣典が、コースや色々な現場で見聞きし、感じたことを書いたのが【毒ゴルフ・薬ゴルフ】です。大量に飲めば死んでしまう毒も、少量なら薬になることは、ゴルフにも通じるのです。

撮影/篠原嗣典

地下鉄の車両は、ギュウギュウ詰めではないものの、車内を移動するのはちょっと大変なぐらいの混み具合でした。
都心から都の端っこに向かって走って行く夕方の地下鉄は、いわゆるラッシュアワーの時間帯だったのです。

昭和53年8月。お盆直前の月曜日の夕方。
13歳の僕は、大人たちの白い視線の中で、キャディバッグと一緒に地下鉄の車両の中に立っていました。

「子供がゴルフだってよ」
「ゴルフするぐらいの家の子なら運転手付きの車で移動したら良いのに」
聞こえるように、大きな声で話している大人もいました。

その週末に、初めてゴルフコースに行くために、5日間の集中練習の初日。
朝、8時に横浜の手前にあるゴルフ練習場に行くために、キャディーバッグを担いで、6時半に家を出て、地下鉄で都心に出て、JRに乗り換えて行きました(当時は国鉄)。
行きは、比較的空いていたので、気が付きませんでした。

午前中は打席で練習して、午後は練習グリーンで練習して夕方になったら帰るというパターンでした。

何の説明も、相談もなく、日曜日の夜に、キャディーバッグとクラブ、2枚のポロシャツ(ズボンは中学の制服)を渡されて、来週の土曜日にコースに行く、明日から金曜日まで、東神奈川の練習場に朝8時に行って、練習しろ、と父に言われたのです。

戸惑いましたし、夏休み中でしたが、ちょうど部活の練習日があって、調整も必要でした。でも、問答無用でした。
問題は山積みだったのにもかかわらず、ゴルフが出来るのだという喜びのほうが何十倍も大きくて、世界が変わって見えたことをハッキリ覚えています。

昭和53年(1978年)の時点で、子供がゴルフをするのは異常でした。企業の多くが、役職が付かない平社員にもゴルフをすることをやっと許可し始めた頃だったのです。

非常識だと責める視線に耐えられず、ゴルフが嫌いになって、ゴルフをやめてしまったジュニアゴルファーも、この頃にはいたと聞きます。

僕は、鳥肌が立つぐらいの快感を感じていました。
ゴルフをすることは、それほどに、嫉妬したり、やっかんだりぐらい凄いことなのだという裏返しでしたし、自分の目の前に開きつつある未知の世界の扉に興奮していたからです。

意地悪な大人を無視するように、降りる駅まで、僕は胸を張って立っていました。

時は流れて、令和4年(2022年)。
子供がゴルフをしていても奇異な目では見られなくなりました。
しかし、ゴルフをする人は、なんやかんや白い目で見られることと背中合わせです。でも、白い目で見つめられた経験は、ゴルファーを開花させるモノなのです。