青木瀬令奈 ロングインタビュー|プレーヤーズ委員長に聞く
「2020年、私がプレーヤーズ委員長に選ばれたのには意味があると思っています」
彼女がその場に現れただけで無機質な部屋に色彩が灯る。黄金世代、ミレニアム世代が席巻する女子プロゴルフ界にあって27歳の青木瀬令奈は「もう若くないですよ」と自嘲気味に微笑んだ。だが目の前にいるその人は若手とベテランの狭間の難しいポジションを颯爽と胸を張って歩んでいるように見える。
GOLF TODAY本誌 No.582 158〜163ページより
ボールが当たった時の快感と全国に友達ができる楽しさと
――今年プレーヤーズ委員長に就任されたそうですね。
青木 はい。女子は選手会がなくてそのかわりがプレーヤーズ委員会。毎年10人前後で構成されますが、今回私は委員になるのも初めてでした。前任の有村智恵さんに「やってみない」といっていただき考えた末引き受けさせていただきました。主な活動はその年のスローガンを決めたり、ファンサービスのための缶バッジやステッカーのデザインを考えたり。あとは年に数回ミーティングを開いて選手の要望を協会側に伝え、協会の考えを選手に戻したり、選手と協会をつなぐ役割も担っています。
例年ならそこまでなのですが、今年はコロナの影響でまったく違う状況になってしまいました。会うこともできないので選手たちのグループラインを作って現状や要望などさまざまなアンケートを行って意見をまとめました。
――大変なときに委員長になられましたね。
青木 よく大変でしょ?といわれますけれど私は逆に今年自分がなった意味があると思っているのです。1つの理由としてはこれまで下部ツアーを経験してプレーヤーズ委員長になった選手がいなかったからです。歴代の方々はエリートが多くて下部ツアーでお金がない時代を過ごした方がいないので、それを経験した自分だからこそ新型コロナウイルスの影響で収入がなくなったとか、契約を切られそうだとか、そういう切実な事情に寄り添えるのかな、と。
実際に姉もまだプロテスト合格を目指していますし、いろいろな立場の選手のリアルな声をきちんと協会に伝えるのが私が選ばれた意味だと思っています。連絡も結構まめに取る方ですし、今年は私で良かったのではないかな(笑)。
――お金がないこともあった?
青木 プロテストに受かってからステップアップツアーに出ていた1、2年はお金がなかったですね。プロゴルファーになれば一生お金に困らないでしょ?といろいろな方に言われますが、実際そんなことはなくてボギーを打ったら「赤字だ!」って思っていました。金銭面で追い詰められてゴルフに響く悪循環。
アマチュアのときは失うものがないので、ボギーを打ってもバーディを獲ればいいや、と思っていました。でもプロになった瞬間〝生活がかかっている〞となったらボギー、イコール赤字みたいな。アマチュア時代から結果を出している選手にはスポンサーがつきますが、そうじゃなかったので来週のステップツアーに行くお金がない、どうしよう? ということもありました。困ったときは親に頼るしかないのですが、プロになったのに申し訳なくて肩身が狭い。いつも行く練習場まで家から車で15分なのですが往復のガソリン代さえもったいないと思った時期がありました(苦笑)。
――華やかなだけではない。
青木 まったく華やかじゃないです。試合に出られるのはうれしいけれど、九州や四国じゃ飛行機を使わなくてはならない。経費が嵩んで賞金ゼロだったら大赤字です。ステップアップツアーでは開催コースのメンバーさんにキャディをしていただいたりするのですが、ツアーのルールを知らない方もいらっしゃるし、カメラでいきなりパシャって撮られたり、結構大変な思いをしながら試合に出ていました。でもそういう経験があったからこそプレーヤーズ委員長でも対処できているのかな、と。
――逆境に強いタイプですか。
青木 ピンチに力を発揮する方だと思います。エイッと打ったら意外と上手くいくことが多いです。たとえば3、4年前の川奈(フジサンケイ)の17番パー3でのこと。左奥のバンカーは皆さんご存知かと思いますが右奥のマウンドをさらに超えたところにもじつはバンカーがあって、そこに打ってしまった。ちょっとでも弱かったらマウンドを上らず戻ってきてしまうし、打ち過ぎるとグリーンを超えて向こうの崖を転がり落ちる。絶体絶命のピンチです。そのときはもう諦め半分で笑いながら「絶対に寄らないけどとりあえず思い切って行くね」とキャディさんに宣言しました。そうしたらすごく上手く打ててオーケーパー。そういうことって結構あります。
私の特技はイヤなことをすぐに忘れられること。どんな大失敗でも忘れられる。で、ゴルフに集中できるんです。これ、完全に特技ですよね?
――イヤなことを思い出して眠れないことは。
青木 ないです。ちゃんと忘れられます。切り替えが早いのかな。でも諦めが早いというわけじゃありません。小さいころから負けず嫌いで、一度決めたら諦めたくない。
――ゴルフと出会ったころのお話をきかせていただけますか?
青木 昔からパパっこで父が練習場に行くとき、一緒に連れて行ってとせがんだのがはじまりです。1階の一番隅の端っこで打っていました。まだ(宮里)藍さんが勝つ前だったので「子供がなにしにきているんだ?」といわれることも多かったですね。ジュニア料金もないしクラブもジュニア用はなくて、最初は父のクラブを短く持って始めました。そのあとはUSキッズというアメリカのクラブを取り寄せて使っていました。
運動音痴の方ですけれどゴルフだけはすごく楽しくて、ボールが当たったときの感覚が快感で!
左利きですが父が「左だとクラブもないし打席も限定されるから」と右打ちを教えてくれました。効き目も左なのでヘッドアップせずにボールを追えるし、右打ちのゴルフが自分には合っていた。父に感謝です。
――最初はお父様に教わった。
青木 ええ、でもきちんとプロに習わせたいという思いが父にあって、女子プロの方のレッスンを受けていました。
最初の2年間は週1回、河川敷のコースでラウンドレッスン。週1が週2になって週3に。で、いつの間にか毎日になったのですが、ほかにも英会話や学習塾、ピアノなどいろいろ習いごとをしていました。
初めてのプロに試合は驚きの連続!?
――プロになろうと思ったきっかけは。
青木 小学2年生からはじめて3年生くらいでジュニアの大会に出るようになりました。そうしたら友達ができて、友達に会いたくて試合に出る感じでしたね。そのころはじめてできたゴルフ友達が葭葉ルミ。ジュニア向けのレッスン会で、プロについて3ホールくらいレッスンを受けるのですが、そこに彼女がいてすごく仲良くなりました。彼女みたいな友達が全国にできました。ただ球を打つだけでは面白くなかったかもしれませんが、友達もできたし、父が熱心に楽しみを教えてくれた。たとえば河川敷のショートコースに行った帰りにアイスを買ってくれたり。そんなちょっとしものに釣られながら続けてこられた気がします。
小学校5年のとき初めて小学生の大会で優勝して、勝つことのワクワクする気持ちの虜になって、さらに試合に出るようになって、中1のときに日刊アマで優勝。そんなこともあってエリエールの推薦がもらえることになったのです。
――はじめてのプロの試合。
青木 そうです。当時たまに見てもらっていた烏山城CCの男子プロの方が大場美知恵さんと知り合いで、練習ラウンドを一緒にしてもらえるように手配してくださったんです。
当日会場に行ったらキャディバッグが4つ並んでいて、一緒に回るのが大場さんとウェイ・ユンジェさん、それに大山志保さんだったことがわかりました。もうワケがわかりませんでしたよ(笑)。練習ラウンドの回り方も知らず、ショットしてグリーンに乗せたらマークするものと思っていたのに、皆さんボールを拾ってポンポンポーンって放って、グリーン周りからアプローチをはじめるじゃないですか。えっ、マークしないの?これはいったい何をしてるんですか?状態。
――中1ですものね。
青木 13歳でした。(大山)志保さんに1番ホール終わったところで「何歳なの?」ときかれて「13歳です」。
「すごいしっかりしてるね。志保が13歳のときはそんなにしっかりしてなかったよ」って言っていただきました。いまでもそのことを覚えていてくださって、お会いするたびに話題になります。その年(06年)に志保さんは賞金女王になられました。
これまでの人生で一番くらいに緊張しました。練習場もどこで打てばいいのかわからない。打席の間の区切りがないじゃないですか。空いているところにパッと入らなきゃいけないのですが、打席の間隔がやけに狭いんです。となりの選手と近くて怖いからウッドが打てなくて、ずっとアイアンばかり打っていました。いまのアマチュアの子は伸び伸びしていて羨ましいです。
――仲の良い成田美寿々さんとの出会いは。
青木 彼女が本格的に試合に出始めたのが高校1年のころ。それまでソフトボールとゴルフの両方やっていて、高校に入ってゴルフに絞ったのだそうです。小中時代は知らないから友達の歴としては長い方ではないけれど今はとにかく一番仲がいい。もともとは関東ジュニアの決勝で美寿々が青木瀬令奈ちゃんと一緒に回りたい、と練習ラウンドのスタート表に名前を書いてくれて出会いました。第一印象は「すごくカッコいい女の子だな」というのと「一撃必殺じゃないですけど、デカイボールを打つな、この子」だったと思います。
――成田さんは。
青木 彼女は私のプレーを見て「糸で引っ張られているかのようにボールが真っすぐ飛んで曲がらない」と思ったそうです。
でも会話はあまり覚えていなくて唯一覚えているのが「成田に住んでいるの?」と私が聞いて「成田じゃない!」って言われたこと。千葉に住んでいるからって成田じゃないよね、みたいな。我ながらどうしてそんなこと聞いたのでしょう(笑)?それから試合で会うようになって再開するたびに「久しぶり?」ってテンションが上がってお互いが抱きついて、ぐるぐる私が回されるのが定番の挨拶になりました。当時彼女はいまより細くて髪もベリー・ショートで男の子にしか見えなくて。同級生の保護者の方から「瀬令奈ちゃんが男の子と抱き合っていた」と言われたりしました(笑)。そのころから頻繁に連絡をとり合っていましたが、連絡を取らなくてもお互い親友という意識があるので、プロになって私が試合に出られるようになってからは毎年年末には一緒にハワイ旅行に行ってゴルフを忘れて買物三昧。特に17年からは宝塚という共通の趣味ができたので、最近はより頻繁に会うようになりました。
宝塚は舞台を観させていただいたり実際ジェンヌさんにお会いする機会もあって、同じ女性だけの世界なので共通点が多くて、わかるぅ、みたいな(笑)。ゴルフと宝塚ファンの架け橋になりたという思いもあります。実際に旦那さまがゴルフ好きで奥様が宝塚ファンの方がゴルフに興味を持ってくださったり。
あと立ち居振る舞いもゴルフと共通する部分。ゴルフも宝塚も魅せるというところが一緒なので、あの歩き方かっこいいなとか、あの手の上げ方を真似してみようとか、けっこう研究します。いまは無観客で残念ですけれど「がんばって」と声をかけていただいたときの返しのリアクションも考えています。
――成田さんの方が先に世に出るようになりました。そのころの心境は。
青木 プロテストに受かった年は一緒ですが、QTで美寿々が成功してポンと試合に出て、かたや私は失敗して下部ツアーで4年下積み。でも美寿々が初優勝したときも悔しいとは思わず素直に泣いて喜べました。会場にいられない私が不甲斐ないという気持ちはありましたけど。それでもアマチュア時代からずっと美寿々は私をリスペクトしてくれていて「待ってる」と言い続けてくれた。QTに成功したときは「お待たせ!」みたいな感じでしたね。
スイングの勘違いから抜け出したその先に
――プロゴルファーとして転機になったできごとは。
青木 15年にレギュラーの試合に出られるようになったとき、大西葵ちゃんも同じタイミングで試合に出だしました。彼女のお兄さん(大西翔太)がいまのコーチなのですが、練習場で私のスイングをみて内心「これじゃ、予選通らないな」と思っていたそうです。
当時はクラブの入り方も悪くて、ターフが左を向いているから上からクラブが入っているのだと思い込んでいました。それを直すには下から入れてドローを打つイメージで振るしかないと思ったのですが、実は右肩が前に出る反動でクラブが寝て起動はカット(アウトサイドイン)。しかもフェースが開いているからこれをさらに下から入れようとするとシャンクしか出ない。自分では解決できなかった矛盾をコーチが解明してくれて目からウロコでした。
その年4月のフジサンケイで82を打ったときには自分でも「これは一からやらなければダメだ」と吹っ切れていて素直にアドバイスに耳を傾けられました。最初はダウンで右肩を出さず縦からアッパーに打つ練習をひたすらやって1カ月で20ヤード飛距離がアップ。さらに習い始めて間もないワールドレディスで4位に入ったとき、目の前の世界がパッと開けて「大西コーチと一緒なら優勝できるかもしれない」と思うようになりました。
それまで飛距離が出ないのが足枷だったのですが、その部分を払拭していただけたことで、ピンが難しい位置に切ってあってもスピンをかけて狙えるようになりました。キャディもしてくれるのでメンタル面でもサポートしてもらっています。
――実際、夢だった優勝が現実になるわけですね。
青木 2017年のヨネックスレディスです。あのときは悪天候で2日間競技に短縮されましたが、その2日間がとても大変で。3時間中断して1ホールしかプレーできずまた中断。3日間ずっとコースにいて気を抜く暇もなく「一番過酷な試合で勝ったのだから自信持っていいよ」といってくれる方もいましたが「今度は3日間の試合で勝ってね」と言われることもあります。
30センチくらいのタップインで勝てればいいな、と思っていたのですが、実際は最終組の1時間くらい前にホールアウトしていて最終ホールも3メートルを入れた感じ。想像とは違いましたが表彰式でスピーチをしていろいろな人に祝福していただいて、あの景色は思っていた以上に最高でした。美寿々もずっと待ってくれていましたし、地元が近かったので祖父と祖母に勝つ姿を見せられた。家族とカップを持って写真撮影。すごく良かったです。でも勝ったからこそあの景色を見たからこそ、またあそこに立ちたい気持ちは強くなりました。
――2勝、3勝するために必要なことは。
青木 目標の選手は申ジエさんです。データ的には飛距離も同じくらいだしパー3ホールのバーディ率とか、リカバリー率、フェアウェイキープ率もほぼ一緒。
でも違うのはパー5のバーディ率やトップ5、トップ15の回数。目に見えない部分では流れの作り方とかゾーンの入り方とか、経験値はまったく違います。とにかく100ヤード以内の精度がジエさんはずば抜けているのです。
先日ジエさんのバッグを担いでいる齋藤優希キャディに担いでいただいてジエさんのことを教えてもらいました。難しい場面でもジエさんは「私入れるんで」という雰囲気で打つんですって。ゴルフはミスのスポーツなのに「私、申ジエです。失敗しないので」みたいな感じらしいのです。それってすごいですよね。1日1打の差が年間では何十打という差になる。大変だけれどそこを縮めるのがこれからの課題です。
――目標は。
青木 いま6年連続でシードを獲っているので10年まで伸ばしたい。最終的になにを目指せばいいのだろう、とこのコロナの時期に皆さん考えられたと思うのですが、私はいまからならなんにでも挑戦できると思いました。
最終的にやりたいのはパン屋さん。まだ何十年も先の話ですけれど、姉が食に詳しいので地元の前橋で姉とパン屋ができれば。あとは強くて働き者の祖母のようなおばあちゃんになりたいですね。
――黄金世代やミレニアム世代に対する気持ちは。
青木 いいぞ、と思う部分はあって若い人がどんどん出てきて、盛り上げてもらいたいとは思います。でもプレーヤーズ委員長の立場でみたとき、スポンサーがついて当たり前、道具をもらって当たり前といった感覚が一部の若手にあるのは、5、6年後を見据えると少し危険かな、と思います。
男子は試合がないから、今、死に物狂いでゴルフ場に交渉に行ったり、各方面に頭を下げたりしています。同世代の男子プロが「名刺に名前以外、なにを入れたら話が繋がりやすいですか?」と聞いていたそうで、意識の高さを感じました。うかうかしていたら女子も抜かされてしまうかもしれません。そこは気を引き締めなければ、と思いますね。
ゴルフ界を俯瞰で捉え語る言葉を持つ青木瀬令奈。ゴルフが魅せるスポーツであることを誰よりも自覚しているからこそ「今年プレーヤーズ委員長になったことの意味がある」と言い切れるのだ。人気にあぐらをかくことなく、小さな体でエネルギッシュに道を切り拓く。頼もしいプレーヤーズ委員長である。
青木 瀬令奈
1993年2月8日生まれ。群馬県出身。前橋商業高等学校卒。153㎝、50㎏。2011年7月28日プロ合格。83期生。2017年ヨネックスレディス優勝。マツシマホールディングス所属。
取材協力/モダンゴルフ80
協力/ NEC軽井沢ゴルフトーナメント、ニトリレディスゴルフトーナメント、JGMA