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桂川有人 ロングインタビュー|フィリピン、日大、そして全英へ。

小学校はサッカー部で中学はバレーボール。その頃のゴルフは遊び感覚でした

2022/07/24 ゴルフサプリ編集部

桂川 有人

中学時代までは「趣味程度」にゴルフをやっていたと語る少年は、今、23歳にして日本男子ツアーの賞金ランキング1位(6月13日時点)に立っている。海が似合う爽やかな好青年に見えるが、その内面は中学卒業後から単身でフィリピンでの生活を選ぶような強い意志を秘めている。プロゴルファー・桂川有人のこれまでの足跡を辿る。

GOLF TODAY本誌 No.602 97〜101ページより

「最初は子守りで祖父に連れられて近所の練習場に通っていた」

プロゴルファーになる選手の多くは、小学生時代からジュニア競技に出場し、全国大会でも活躍している。しかし、桂川有人は土日に祖父に連れられて近所のゴルフ練習場に行くことが小学生時代のゴルフだった。

――そもそもゴルフをはじめたきっかけは?

桂川 母子家庭で育ったので、おじいちゃん、おばあちゃん子でした。小さい頃はよく子守りをしてもらっていたのですが、おじいちゃんがシングルプレーヤーでクラブチャンピオンになったこともあるくらいゴルフが好きでした。だから、はっきりした記憶があるわけではないのですが、4歳頃から週末はおじいちゃんに連れられてゴルフ練習場に行くようになりました。

――そこから本格的にゴルフをはじめることに?

桂川 いえいえ、最初はおじいちゃんの練習を見ているだけで、少しずつ子供用のクラブを打つようになった程度です。おじいちゃんも平日は仕事だったので、練習場に行くのは土日だけ。小学校ではサッカー部に入っていましたから、ゴルフは週末の習い事みたいな感覚でした。でも、ボールを打つことはすごく面白かったです。

――コースデビューしたのは?

桂川 小学校2年生の頃です。スコアははっきりとは覚えていませんが、110くらいだったと思います。コースに行くようになってから、よりゴルフが面白くなった。スコアをつけるのがゲーム感覚に近かったので『もっともっと良い点数を出したい』と思っていました。

――どのくらいのペースでラウンドに?

桂川 おじいちゃんも普通のサラリーマンだったので、月に1回くらいです。小学校3年生の頃に石川遼選手が出てきて、『カッコいいな』と思って憧れましたけれど、そこを目指すような環境ではなかったのでゴルフは趣味程度にやっていました。

桂川有人
愛知県で生まれた桂川有人は決して裕福な家庭で育ったわけではない。ゴルフコースに行くようになってからも「月イチ」だったと語る。

同世代で本気でやっている選手を見ると緊張していた。

――中学生に入ってからは?

桂川 小学生時代と変わっていません。コースに行くのは月に1回で、土曜と日曜は練習場に通っていました。ゴルフ部があるような中学校ではなかったので、バレーボール部に入っていました。

――ゴルフの競技には出場していた?

桂川 中学時代は愛知県とか中部地区の大会に少し出ていました。でも、全国大会とかは3年間で1、2回しか出ていないと思います。正直、ゴルフが楽しいだけだったので、大会に出るのも楽しかった。同世代でガチでやっている選手を見て『スゴイな』と思っていましたし、一緒になると緊張していました。

――そこから、どうやってフィリピンに行くことになったのか?

桂川 週末に通っていた練習場で、たまたまフィリピンで会社を持っている人から声をかけられて、フィリピンのコースの話とかゴルフ環境を教えてくれた。
その人の知り合いがフィリピンでゴルフ工房をやっているので、一度、連れて行ってもらうことになりました。そうしたら、ゴルフをやるには最高の環境で、『ここで毎日練習していたら、同じ年代のトップ選手に追いつけるな』と思いました。そこから1人でフィリピンに行くことにしました。

――家族は反対しませんでしたか?

桂川 母親は賛成してくれましたが、おじいちゃんはかなり心配だったみたいです。フィリピンに行くことを決めたのも中学卒業のぎりぎりというか、もう日本で行く高校もほとんど決まっていたタイミングでしたからね。高校も急遽、通信制に変更しました。

家は8番ホールの隣。朝9時から6時までゴルフ場にいた。

  • 桂川有人

    「1人でフィリピンに行くときにはプロになるしかないと思っていました」

  • 桂川有人

――フィリピンではどんな生活を?

桂川 家は8番ホールの真横にありました(笑)。マニラサウスウッドゴルフ&カントリークラブという、フィリピンではプロのトーナメントも開催している名門コースなのですが、ほとんど毎日、朝9時頃から夕方6時までゴルフ場にいました。
日本の感覚からすると、フィリピンのコースはかなり自由で楽しかったです。フィリピンは当日の朝に予約をとるのですが、家が近かったので、私が朝イチで予約をとって、週末になるとフィリピン在住の日本人の方と一緒にラウンドして、その後は夕方まで練習していました。練習場も300ヤードありました。

――ホームシックになったりとかは?

桂川 とにかくゴルフをやればやるほど上手くなるのが楽しかったので、ホームシックとかは全然なかったです。全く飽きることもなく、練習したり、ラウンドしていました。家も小さい家だったのですが、フィリピンで面倒を見てくれた方とか、そのご家族や会社の方とか、多いときは10人くらいで住んでいました。

――フィリピンでは試合にも出ていた?

桂川 アマチュアとしてフィリピンツアーにも出ていましたが、レベルが高かったし、コースも難しい。フィリピンに行くときもQTを受けたのですが、80を切るのが精一杯。
そのコースは青木功さんが設計していて、最近になってその話をさせてもらう機会があったのですが、『あそこ、難しいだろ』と言われました。でも、フィリピンに行くことを決めたときから『プロゴルファーになるしかない』と思っていました。

――フィリピン時代に日本の試合には出ていなかった?

桂川 ときどき帰国してジュニアの大会などに出場していました。3年間で確実にゴルフは上手くなっていたと思うのですが、日本とフィリピンでは芝が違いすぎていて、アプローチやグリーンで全く感覚が違う。それに対応できなかったので、結果は出ていませんでした。

大学に入ってから練習量は半減。だから練習の質を高めた。

桂川有人
「体を鍛えたくて日大に入ったけど、まずはショートゲームが下手すぎた」

――フィリピンでの3年間を経て、日本大学に進学した理由は?

桂川 フィリピンでプロになることを考えた時期もありましたけど、フィリピンでは本当にゴルフの練習しかやっていなかった。体も小さくて、細かったので、プロゴルファーとして1年間戦うためには体を鍛えないといけないと思った。だから大学のゴルフ部で体を鍛えたりする本格的なトレーニングをしたいと思って、日本大学に入りました。

――日本大学は一流プロゴルファーをたくさん輩出していますが、入学して、どうでしたか?

桂川 練習量はフィリピン時代から半減しました。学校もありましたし、その合間に合宿や試合があったりしたので忙しかった。でも、先輩方はすごく効率の良い練習をしながら成績を出していた。だから、練習の質を上げることが大切だと思いました。

――大学時代に最も成長したのは?

桂川 ショートゲームですね。フィリピン時代はショットの練習ばかりしていたから、大学に入ったときはショートゲームが下手すぎた。そこからショートゲームをよく練習するようになったら、大学では勝てるようになって、プロの試合にも少しずつ出られるようになってきました。

「初優勝は不思議な感覚。本当にプロの試合に勝ったのかな」

桂川有人

日本大学入学後の桂川は1年生(2017年)で「文部科学大臣杯」や「朝日杯」といった主要タイトルを獲得し、2年生(2018年)で「日本学生ゴルフ選手権」で優勝。同年は「日本オープン」でも2日目を終わって一時トップに立つなど、一躍注目選手となった。
2019年には中島啓太や久常涼も出場したネイバーズトロフィー選手権で個人、団体で優勝するなどプロに向けて順調なステップを重ねていた。しかし、本人の感覚は違っていた。

大活躍していた2019年もショットは絶不調

――大学時代はアマチュア競技でもプロの試合でも結果を出していましたが、プロで通用する手応えは?

桂川 2019年頃はとにかくショットの調子が悪かった。日本に帰ってきてから、すごく寒いときでもプレーするようになったので、体が動かないスイングで無理矢理ボールを打っていました。4年生になると新型コロナウィルスの影響で試合がなくなりました。そのときクラブをいじったり、スイングを変えてみたりして、ますます調子が悪くなったので、自分が思うようなゴルフはできていませんでした。

――大学4年生の秋にプロ転向を表明して、翌年にはAbemaツアー「石川遼everyone PROJECT Challenge」で初優勝を飾りましたね。

桂川 その時期もショットの調子は良くなかったのですが、あの試合だけたまたま良かった。でも、プロ入り当初はしばらく勝てないと思っていたので、優勝できて少しホッとしました。

――ショットの調子を取り戻したのはいつ?

桂川 今年1月の「SMBCシンガポールオープン」です。3日目が終わった後の練習で、何か良い感覚が戻ってきました。最終日もその感覚でやったら、久しぶりに良い感じでラウンドできました。

最終日は3バーディ・ノーボギー。この試合で日本人最高位の2位となったことで全英オープンの出場権を獲得した。

「今年はシード入りが目標だったので、全英は実感がわかない」

――具体的には何が変わったのですか?

桂川 3日目が終わったときの練習で、バックスイングで少し力を抜いてゆっくり上げるようにしたら、すごく良い感じで打てた。そのときだけハマったのかもしれませんが、その後も練習で良い球がどんどん打てるようになった。良い球が打てるようになると、その感覚が次のショットにつながってくれるので、今は良い感じで打てています。

――4月にレギュラーツアーで初優勝したときは?

桂川 不思議な感覚ですね。本当にプロの試合で勝ったのかなと。少しずつレベルアップしている感覚はありましたけれど、正直、予選を通っても、上位にいる選手とはレベルの違いを感じていました。だから、こんなに早く勝てるとは思っていませんでした。

――7月には「全英オープン」も控えていますが

桂川 正直、今も実感は全くありません。未知の世界なので本当にコースに関してもよくわからない状況です。今年はレギュラーツアーの賞金シードをとることが目標だったので、海外メジャーなんて全く考えていませんでした。
ただ、いつも心がけているのは自分のプレーに徹すること。全英オープンだからといって特別なことをするのではなくて、自分のゴルフがどこまで通用するのかを確認したい。そのためには最高の準備をして挑みたいと思っています。あと、初めて会うのですが松山英樹選手には挨拶したいと思っています。

――松山選手のようにPGAツアーに行く予定は?

桂川 もちろんいつかはPGAツアーでやりたい気持ちはあります。

15歳で単身でフィリピンに行った桂川は、すでに〝次の海外〞を見すえていた。

桂川有人

最高の準備。そのためにはじめたのがインナーマッスルや体の可動域を広げるためのトレーニング。このインタビューが終わった後も、重さ2㎏以上の特殊な縄跳びを使ったメニューをこなしていた。


桂川有人
1998年10月9日生まれ。愛知県出身。B型。中学卒業後はフィリピンに単身移住。
帰国後は日本大学に進学し、大学在学中は「日本学生」「朝日杯」「文部科学大臣杯」「日本オープン ローアマ」など主要なタイトルを獲得。
2020年秋にプロ転向し、2021年はAbemaツアーで初優勝。2022年は1月の「SMBCシンガポールオープン」で全英オープン出場を決めて、4月にはレギュラツアー初優勝を飾った。国際スポーツ振興協会所属。初出場した全英オープンは、松山英樹(68位)とともに見事予選を通過、通算5アンダーで47位という成績を残した。


取材・構成・文/野中真一 撮影/田中宏幸 写真提供/ISPS

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