1. TOP メニュー
  2. HOTニュース
  3. キャンペーン
  4. ミズノプロTi-110Ti-120|1本なんと18万円! 世界初のチタンドライバー

ミズノプロTi-110Ti-120|1本なんと18万円! 世界初のチタンドライバー

商品開発はドラマ!!!|今だから言える驚きのストーリー[第8回]

2021/09/02 ゴルフサプリ編集部

ゴルフメーカーの商品開発におけるドラマチックな業界裏話をメーカー勤務経験のフリーライター・嶋崎平人が語る連載企画。今回はミズノプロTi-110Ti-120が主役のストーリー。
GOLF TODAY本誌 No.591/68ページより

ミズノ2代目社長の鶴の一声から始まったのが航空産業で使われていた新素材の採用だった

世界初のという触れ込みで、飛距離も10ヤードアップするということで話題を集めた。商品名のTi-110、Ti-120はロフトで、10度と12度の2タイプの発売だった。

ミズノ2代目社長の鶴の一声から始まったのが航空産業で使われていた新素材の採用だった

世界初のチタンドライバーはミズノから発売された。1990年である。1990年当時はクラブヘッドの素材の技術革新が急激に進んでいた時代であり、各社が新しいヘッド素材に挑戦していた。80年代までの主流は、まだパーシモンヘッドであった。しかし、1979年の米国のゲーリー・アダムスがテーラーメイド社を設立し、ステンレス製ヘッドを発売した。

これを機に、各社からメタルヘッドが本格的に商品化され、さらに1982年にはヤマハ、ミズノ、ダイワなど国内メーカーがカーボンヘッドを発売。1990年にはブリヂストンスポーツがJ'sメタルを発売し大ヒット、パーシモンの時代に終わりを告げた。メタル、カーボンの時代に変わり、次のヘッド素材として、登場したのがチタンである。

チタンヘッドが登場したのは、今から30年前の話である。各社が開発競争をした中で、ミズノがどうして世界で初めてチタンドライバーを発売できたか。当時の開発担当者はすでに退職されているが、事情に詳しいミズノの賀屋和之氏にお話を伺った。賀屋氏は1983年ミズノ入社で、当時はクラブ企画を担当されていた。

ミズノのチタンヘッドの開発のきっかけは、当時のミズノの二代目社長の水野健次郎の一言であった。

水野健次郎社長は、大阪帝国大学理学部卒で化学や金属に対して研究熱心で、1985年の年末に技術陣を集めた会議で「なにか新しいトピックスはないのか」の発言を受けて当時技術開発のゴルフ部門のチーフをしていた永井正夫氏が「こらからのウッドヘッドはチタンです。」とのやり取りがスタートとなった。水野健次郎社長は、技術に造詣が深く、高強度で軽いチタン素材の可能性を先見していたのであろう。永井氏は会社の命を受け、1987年に当時軍需・航空産業でチタン鋳造技術開が進んでいた米国に赴き、チタン鋳造メーカーをリサーチ。「チタンのゴルフクラブヘッド鋳造は可能か」との話をしたが、軍需中心のメーカーからは相手にされなかった。これとは別に当時の水野社長が理系出身のネットワークで、1987年に神戸製鋼所でチタンヘッドの試作をしたが1回限りで思うようにいかなかった。リサーチする中で、三菱金属(現三菱マテリアル)が航空産業でチタン開発をしていたため、大きなチタンの鋳造設備を持っており、開発をできることが決まった。

ミズノの賀屋和之氏は1983年入社で、当時はクラブ企画を担当。チタンドライバー開発の裏側を知る数少な社員の一人だ。

当時のメタルドライバーの3倍の価格だったが5年間累計で1万9800本の大ヒット商品に!

三菱金属の最初の試作は1987年頃から始まった。発売に遡ること3年前である。チタン材料で純チタンは強度が出ず、チタン合金を検討するところから始まりの時間を要した。チタンヘッドは薄肉の中空鋳造でまだ三菱金属でも作ったことはなかった。チタンは鋳造する時、酸化を防ぐため真空中で鋳造しなければならない。また比重が4・4前後で軽いため、溶かしたチタンが鋳造の型に上手く流れないので製造法も新たに開発する必要があった。 鋳造方法も今では普通になっている、軽く、薄肉のチタンヘッドを鋳型に流すための遠心鋳造にたどり着き、量産の目途がついた。

賀屋氏も三菱金属に見学に行ったことがあり、「航空機の翼などを作っていた鋳造施設だけに、整理整頓された工場であった。無駄なものは一つもなかった」と最先端工場で世界初のチタンヘッドが誕生したことがうかがわれる。

ミズノのチタンヘッドはゴールドの塗装であった。商品名はミズノプロTi-110、Ti-120の2種類であった。名前はシンプルでプロに使ってもらいたいとの思いでミズノプロ、110はロフト11度、120はロフト12度を表していた。体積は206cm3、201cm3で当時としては馬鹿でかいヘッドであった。価格は1本18万円、メタルドライバーの4〜5倍の価格で、高価な値付けであった。ただ、この価格も、生産能力が年間3000本で、製造の難しさもあり、製造の歩留まりから原価を積算して、利益がでるギリギリの価格設定であった。プレスリリースでは、性能はメタルヘッドと比べると、スイートエリアが30%拡大し、飛距離も10m伸び、コントロール性が優れていると明記されていた。賀屋氏も同志社大学のゴルフ部出身で、試打したときに今まで当たったことのない練習場のネットの上部に当たり、飛ぶことを実感したとのことである。実際にそのことが評判を呼び、予想以上に販売が伸び、18万円のクラブが5年間累計で1万9800本のヒット商品となった。

社長の大きなリーダーシップがあったからこそ、世界初のチタンドライバーを生み出せたのだろう。米国の文献を調べてみても、世界初のチタンドライバーはミズノと明記されている。ミズノがホテルにメディアを集めた記者発表をしたのが、1990年1月18日、発売は3月10日であった。実は、ミズノより早くジョイが2月15日にチタンドライバーを発売していた。

しかし、記者発表を1月にしたことで、世界初の名誉はミズノに輝いた。その年にサンケイゴルフ、アシックスからも相次いでチタンドライバーが発売さはれた。チタンの商品開発競争も熾烈を極めていった。


ゴールドの塗装は他のブラックやシルバーのドライバーとは、明らかに違う印象をゴルファーに強烈に与えた。
ヘッド体積が206cm3と201cm3だが、その頃のドライバー体積に比べるとかなりのデカヘッドだった。
スイートエリアが30%拡大し、飛距離が10メートルも伸びるとリリースされた。

取材・文/嶋崎平人


商品開発はドラマ!!! 今だから言える驚きのストーリー
←スリクソンZX5
inpres RMX UD+2→

Vol.7(前回)へ Vol.9(次回)へ

シリーズ一覧へ