1903年~1945年 戦前
1903年六甲に神戸ゴルフ倶楽部オープン
アーサー・グルームは、外国人居留区内にあったKRAC(神戸レガッタ&アスレチッククラブ)と神戸倶楽部のメンバーで、アウトドアが大好きだった。そして六甲山に別荘を自らの手で開拓し建てた。仲間たちが集まって酒を酌み交わすと話題がゴルフに集まった。そこで「そんなに面白いのならコースを作ろう」と、1901年に4ホールを自分で造ったのが、日本のゴルフの始まりとなった。いまでも神戸ゴルフ倶楽部内に、当時コースを造成したときの用具の一部が展示されているが、開拓・造成が容易ではないことが伺われる。
その2年後の1903年には、9ホールとなり「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生したのである。当時は、駕籠で麓から山頂にあるゴルフコースへ行き、プレーをしていた。
ところが12月から3月までの冬の時期には六甲山頂は雪が積もるなどでプレーができないということで、1095年に横屋ゴルフアソシエーションを作ったのが、日本で2番目のコースである。
海外留学でゴルフを覚えたアマチュアが黎明期を引っ張る
日本アマチュア選手権は、もともとは神戸ゴルフ倶楽部と根岸競馬場内(トラック内のフィールド=現在は、根岸森林公園)にあったニッポン・レーシングクラブ・ゴルフィング・アソシエーションとの対抗戦である。1907年が第1回で、1917年まで続いていた。駒沢に東京ゴルフ倶楽部ができて、対抗戦が様変わりし、1918年、日本人ゴルファー井上信が優勝。続いて川崎肇が優勝した。そして1924年10月17日に、ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA)が創立したことから、日本アマチュアゴルフ選手権になったいきさつがある。
東京・駒沢の東京ゴルフ倶楽部に7倶楽部の代表が参集して創立。7倶楽部は、神戸ゴルフ倶楽部、根岸ニッポン・レーシングクラブ・ゴルフィング・アソシエーション、東京ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフ倶楽部、舞子カントリー倶楽部、程ヶ谷カントリー倶楽部、甲南ゴルフ倶楽部であり、各代表には、外国人が6名。そして大谷光明、西村貫一、南郷三郎、井上信、伊藤長蔵の日本人が5名いた。大谷は、西本願寺21世門主の明如猊下の三男に生まれ、1906年から3年間英国留学時にゴルフを覚え、日本で初めてR&Aのルールブックを個人で日本語翻訳を出版している。
その後、設計家アリソン招聘に尽力し、自らもコース設計をした人物である。そして、伊藤長蔵も英国・スコットランドのコースを100以上プレーし、日本初のゴルフ雑誌「阪神ゴルフ」その後「ゴルフドム」を発刊。廣野ゴルフ倶楽部の造成にも活躍している。
当時は「会長制なし。東京ゴルフ倶楽部を代表して出席した大谷光明は、数年前から組織作りを計画していた。当時の競技規則は英文のものを適用していたため十分に理解できず、反則行為となってペナルティを課せられるケースが多かった。日本のゴルフは日本人の手で倶楽部の運営、規則、作法を構築したいと考えていた。これが組織作りのきっかけになった。
JGAは「日本のゴルフクラブを統轄する団体で、外国に対して日本を代表する機関になる。」と記載されている。
日本アマチュアゴルフ選手権として初の優勝者は、1925年に川崎肇だった。3度目の優勝である。
その後、英文のJapanGolfAssociationから日本ゴルフ協会と日本語名となっているが、年代不詳である。おそらく、戦時中にゴルフ用語もすべて邦語にしたときがきっかけだったと思う。
留学などで海外でゴルフを身に着けたアマチュアゴルファーが、日本にゴルフを定着させるべく東奔西走していた時代だった。
日本のプロ第1号のパイオニア福井覚治は38歳で早逝
生家の隣にできた横屋ゴルフアソシエーションがきっかけでゴルフと出会った12歳の福井覚治は、コース設立に尽力したロビンソンの専属キャディとなり、メキメキとゴルフの腕前をあげた。成長した福井は、その後、猪名川に移る鳴尾ゴルフ倶楽部や廣野ゴルフ倶楽部の土地探しにも協力している。
福井は、舞子(現・垂水)カントリー倶楽部(当初9ホール)ができると、キャディマスター兼務のプロゴルファーとなった。初の日本人プロゴルファーの誕生である。
当時は、アマチュアの大会ばかりで、1926年に、ようやくプロゴルファーの大会が始まった。茨木、舞子、甲南、鳴尾の関西4倶楽部が主催、大阪毎日新聞社の後援で開催された。それが後の日本プロゴルフ選手権だ。勝者は、福井の弟子の宮本留吉で、福井はプレーオフで敗れて2位となっている。同年11月には日本初のオープン競技、関西オープンが始まり、福井が優勝を飾った。この時34歳。これが生涯1度の優勝だった。それというのも、福井は、関西オープン優勝の3年後、38歳で亡くなったからだ。
第1回日本オープンの勝者はアマチュアの赤星六郎
はじめにアマチュアありき、という言葉がある。1927年、程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された第1回日本オープンの優勝者・赤星六郎もアマチュアゴルファーだった。
2位の浅見緑蔵(プロ)とは、なんと10打の差をつけての圧勝だった。
当時のプロゴルファー、宮本留吉も安田幸吉も「ゴルフの先生は、赤星六郎」だったと言っている。それというのも、赤星は、米国プリンストン大学ゴルフ部で大活躍をして帰国した人物だからである。言ってみれば、本場の本格的なゴルフをマスターしていたからだ。
その赤星の影響は大きい。後に、プロゴルファー育成に尽力し、プロを海外遠征させるべく働きかけている。まだ台湾の陳清水を日本に呼んで育成。その後の台湾プロゴルファーの系譜の発端となった。そして、兄の四郎ともにコース設計にも活躍しているのである。赤星の存在がなければ、日本のプロゴルファー、アマチュアゴルファーの育成も遅れただろうし、素晴らしいコースも誕生しなかっただろう。
1946年~2000年 戦後
1957年日本開催のカナダカップで中村寅吉が優勝し〝第1次ゴルフブーム〞に
ゴルフ大衆化。日本第一期ゴルフブームのきっかけとなったのが、1957年。霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催された第5回カナダカップ(現・ワールドカップ)である。
国を代表する国際的な唯一の大会で日本選手が参戦したのは、第4回大会からで、林由郎、石井迪夫が出場している。
世界30カ国60名が参加。日本初の国際イベント。中村寅吉は、大会新記録の14アンダー、274で個人優勝。そして団体優勝。また、1966年に再度日本の東京よみうりCCでも開催。そのときは、杉本英世、河野光隆が出場し杉本はプレーオフに敗れ個人2位。
その大会と中村・小野の活躍が日本のゴルフ界に火をつけた。ゴルフ場が次々に開発され、用品用具も闊達に販売されるようになった。また小津安二郎の映画にも、ゴルフシーンが頻繁にでて来た。サラリーマンが、ゴルフをし、デパートの屋上にも練習場ができて、ゴルフブームを思わせるシーンである。面白いことに、霞ヶ関のカナダカップでは、新聞記事を現地から送る手立てとして伝書鳩が使われていた。いまのように電話・ファックス・メールのない時代だったからだ。
ワールドカップは、2年に1回開催され、その後も尾崎将司、青木功などその時代のトッププロが参加していた。
そして45年後の2002年に丸山茂樹・伊澤利光の2人が参加して、見事に団体優勝を果たしている。
その後、2005年から女子のワールドカップも開催され、南アフリカで開催された第1回大会では、宮里藍・北田瑠衣が見事に団体優勝している。しかし、残念ながら2008年で大会は中止された。
いまのように世界に羽ばたく大会がない時代、ワールドカップは唯一の大きな存在だったのである。
樋口久子が全米女子プロ優勝 日本人で初のメジャータイトル獲得
1967年に、日本プロゴルフ協会女子部として設立された日本女子プロゴルフ協会。そのころ、試合が年間で2試合しかなかった。日本女子プロ選手権と日本女子オープン(当時、TBS女子オープン)。試合数が少ない時代に、修行目的で、米女子ツアーに参戦したのが、樋口久子と佐々木マサ子だった。
1970年。いまから51年前のことである。大阪万博が開催した年でもある。
その樋口が、全米女子プロに優勝したのが、1977年。米女子ツアー参戦8年目のことだった(その前年には、イギリスのコルゲート欧州女子オープンで初優勝)。
樋口の米ツアー遠征が、日本女子プロ界にとって開拓時代、先駆者だとすれば、1980年代の岡本綾子(1987年賞金女王)の活躍は、日本女子の実力を示した時代といえよう。
樋口の時代は、1ドルが308円。岡本の時は、240円から130円に急激に変動した時代。ようやく男女雇用機会均等法が85年に成立した。
藍ちゃんこと宮里藍の登場で女子プロブームが到来!
宮里藍が、2001年に東北高校進学し、17歳で、ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンで、アマチュア選手として優勝。それをきっかけに「藍ちゃん旋風」が巻き起こった。
現在の女子プロブームの火付け役は、紛れもなく宮里藍の活躍と存在だろう。女子選手は、ジュニア時代から頭角を現し、ナショナルチームを経て、プロゴルファーとして活躍という流れが主流である。
宮里のライバルとして横峯さくらがいて、このところ活躍著しいところでは、勝みなみ、畑岡奈紗、稲見萌寧、小祝さくらなどなど枚挙にいとまがない。
道具の進化をはじめジュニア環境が様変わりし、1998年生まれの黄金世代、そして2000年度生まれを中心としたミレニアム世代の活躍が目覚ましい。
AONがプロツアーを席巻!その後には学士プロの時代に
日本では、60年代から70年代にかけて、杉本英世、河野高明、安田春雄という「和製ビッグスリー」と呼ばれる若手選手が活躍した。ちなみに杉本英世は、日本人選手初の米ツアーテストを受けてライセンスを取得しているし、河野高明は、マスターズで12位となり、“リトル河野”と呼ばれ親しまれた。
そして70年代に入って一気にプロトーナメントが急増した背景が、ジャンボ尾崎の登場だった。プロ野球選手から転向した尾崎は、それまでの日本のプロゴルファーにはないアスリート感覚とタレント性の高い存在、何よりもずば抜けた飛距離で一躍スターダムに登りつめた。その後、青木功が活躍し「AO時代」があり、さらに中嶋常幸が加わる「AON時代」となった。事実、1983年の日本オープンで青木功が優勝して以来、1994年に尾崎が優勝する12年間で、AONの優勝が、なんと10回もあった。尾崎が通算5回(1974年も含む)。青木が、2回。中嶋が、4回である。
そのAONと同時に、いわゆる学士プロの活躍もある。三羽烏と呼ばれた倉本昌弘、湯原信光、羽川豊である。湯原は、理論派。羽川は左打ちプロとして大成し、倉本は天才と呼ばれていた。
以来、大学ゴルフ部出身のプロゴルファーがどんどん増えてくる時代になった。日本のプロゴルファーの流れを辿ると、キャディを経てプロになる時代。別のスポーツからの転向。そして大学ゴルフ部出身、あるいはゴルフ英才教育からのプロゴルファーである。近年では、ほとんどがジュニアを経て大学ゴルフ部出身者となっている。
バブル景気でゴルフ場建設ラッシュ 会員権にまつわる事件も
バブル時代。1985年から1991年までを、そう呼んでいる。ゴルフ界も大きな影響を受けた。ゴルフ場の会員権が、3億円ということもあった。笑い話で有名なのが、外資系の日本支社の支社長が、ゴルフの会員権を買いたいと本社に打診した。そして3億円だというと「18ホールのゴルフ場を買うのか?」と聞き返したという。
数千万円の会員権が当たり前の時代だった。またその当時は、当然、ゴルフ場開発ラッシュにもなった。ともかく、僻地でも開発し、会員権を販売すれば、いくらでも売れるという時代である。
このバブル時代は、ゴルフ界にとっても明と暗の部分が際立った。
明の部分では、ジャック・ニクラス、ピート・ダイ、ロバート・トレント・ジュニア。マイケル・ポーレットなどなど、世界の名設計家がデザインしたコースが続出したことである。
一方では、バカ高い会員権がバブルが弾けたとともに急落し、投資目的で購入した人たちに大打撃を与えたことである。また、もちろん事件もあった。
1985年豊田商事の永野一男が殺害された。その豊田商事も少なからずゴルフ場に関連した詐欺事件も含まれていた。さらに、茨城県高萩市の茨城カントリークラブ事件があった。会員人数を2800名限定として販売していたにも関わらず、実際は、5万2000人以上に売りさばいて金銭を集め、関連会社に横流しした事件である。
クラブはパーシモン、スチール時代からメタル、チタン時代に
クラブはパーシモン、スチール時代からメタル、チタン時代にゴルフクラブの進化は、大別するとヒッコリー時代。パーシモン、スチール時代。そしてメタル時代。チタン時代と進化している。
ヒッコリーは、シャフトが主にクルミの木でできたクラブ。そこにウッドヘッドとアイアンヘッドをつけたものだ。これが1900年初頭まで続いた。そしてスチールシャフトが生まれたのが、1930年頃だ。
そこでスイング論も大きく変わり、さらにヘッドがパーシモン(柿の木)のデザインと性能が充実したのが、1950年代。主流は、マグレガー製だった。
さらにシャフトで、スチールからカーボンが登場してきたのが、1974年ごろだ。その後、カーボングラファイトのシャフトも成熟期を迎え現在に至る。
そして1980年代になって、メタルヘッドの時代がやってくる。日本でいち早く取り入れたひとりが、ジャンボ尾崎だった。ティペグを高めに刺して、スピン量と弾道の高さを調節し飛距離を生んだ。
さらにヘッド体積もどんどん増えて、いまでは460㎤だが、最初は、230、260㎤がデカイと言われていた。
メタルヘッドからチタンに変わったことで、素材が軽量ゆえに体積を大きくすることができたのである。それによって、スイングの変化がともなった。
2001年~未来
2007年ハニカミ王子・石川遼 15歳245日でツアー優勝!
世界では、タイガー・ウッズが、1995年にアマチュアとしてマスターズに初出場。そしてプロ転向。いきなり2勝をあげ、1997年には史上最年少の21歳3ヶ月でマスターズ初優勝。わずか10ヶ月あまりでマスターズを含む7勝。世界ランキング1位という輝きを見せた。タイガーの出現が、世界を変えたといえる。
そして、日本でもタイガーに憧れるジュニアたちが急増し、そのひとり石川遼も、2007年、15歳245日でアマチュア選手としてマンシングウェアオープンKBSカップに優勝する衝撃的なデビューを飾った。
タイガーは「僕の最大の武器は、精神だと思うんです。そして僕の最大の財産は、コースで自分自身のことを考えられることです。そして出る試合は、常に優勝を狙っています」と言い放った。この21世紀のヒーローは、伝説をつくり時代を牽引し、アスリートゴルファーという言葉を定着させた。
石川遼の出現も、日本のゴルフ界を大きく変えた。スター性のある若手選手ということだけでなく、宮里藍と同じくジュニアゴルファーに大いに刺激を与えたのである。
石川は、2008年プロ転向後、その年の11月にマイナビABCで優勝した。
「(18ホールを戦っている)途中で、何度か誰か助けて欲しいと心の中で叫びたくなるほど、苦しかったけれど、最後に必ずいいことがあると思ってプレーして頑張った。これまでゴルフの難しさとか、気持ちのコントロールにすごく苦しんできたけれど。僕はまだまだ本当のつらさを知らないと思う。これからなんです」と初々しいコメント。石川のコメントの素晴らしさはゴルフ界だけではなく幅広く注目された。
渋野日向子の全英女子オープン、松山英樹のマスターズと日本人が相次いでメジャーで優勝飾る
日本人選手のメジャー優勝は、1977年全米女子プロゴルフ選手権優勝の樋口久子が初めてのことである。
そして女子では、2位が4人いる。1987年全米女子オープン、1989、91年全米女子プロで岡本綾子がいずれも2位。宮里美香が、2012年全米女子プロで2位。畑岡奈紗が、2018年全米女子プロ、2021年全米女子オープンで2位となっている。
2019年。渋野日向子が全英女子オープンで優勝したのは、女子では樋口以来42年ぶりの快挙となった。初遠征、初出場のシンデレラストーリーとなった。
本人は、純粋無垢にゲームを楽しんだという感覚があった。メジャータイトルに勝ちたい、欲しいというプレッシャーはほとんどなかったのだと思う。優勝して、ヒシヒシとその重みを実感してきたというのが本音だったと思う。
その後、笹生優花が全米女子オープンで畑岡奈紗とプレーオフの末に見事初優勝した(この時点での笹生の国籍は日本とフィリピンの両国籍)。
そして2021年には、松山英樹が念願のマスターズに優勝する。
2011年マスターズで、松山英樹がローアマとなって表彰式に立った。それから松山のマスターズに対する情熱がより高くなった。そして10年間、いい結果はでなかった。でも「あの10年前がなければ、いまの僕はなかったと思う。この10年が、僕にとって短かったか長かったかわかりませんけれど……」と語った。
マスターズに日本人選手が初挑戦したのは、1936年第3回大会の戸田藤一郎、陳清水である。それ以来、その時代時代の名手たちが挑戦していった。松山がマスターズに優勝するまで33人の日本人選手が挑戦してきた。そして延べ132度の挑戦で初めてグリーンジャケットに袖を通すことができたのである。もちろん松山英樹は、オーガスタナショナルゴルフクラブの名誉メンバーとなる。
PGM・アコーディアといった大資本によるゴルフ場の統廃合が加速
バブル崩壊後、ゴルフコースも負の遺産として混迷する時代が、あった。大手ゴルフ場グループも倒産、あるいは民事再生、単体のゴルフ場もその波に襲われていた。
外資系のアコーディアやPGMといった企業が、ゴルフ場運営に関わるようになってきて、ゴルフ場の統廃合が加速した。
当初は、外資にゴルフ場が乗っ取られるというように敵視されていた風潮も、いまとなっては、グループ運営・経営なくして生きながらえることはできなかったという評価にも変わってきている。
ある意味、ゴルフ場経営・運営の合理化が求められる時期でもあったはずだ。バブル崩壊までのゴルフ場の姿勢は、営業しなくても客(ゴルファー)はやってくる時代。社用・接待ゴルフで潤っていた時代だった。
ところが入場者が激減し、いざ営業努力といっても、グリーンフィの値下げしか浮かばない状況だった。そんな中、外資の徹底した合理化を利用しやすい仕組みが、結果的に外資系企業による買収につながったといえる。単体で健全な経営ができるのは、ごく一部の名門コースに限定された。しかし、名門の川奈ホテルゴルフコースも、今ではプリンス系が運営している。
その後、インターネットでの予約システムなどが急増し、ゴルフ場が息を吹き返した。皮肉にも、コロナ禍のリモートワークなどで、どのコースも集客が多いといわれる。
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男子のフジサンケイクラシック、女子フジサンケイレディスを開催実績のある名門コースの川奈ホテル・ゴルフコースだが、今はプリンス系の経営に。
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サントリーオープンを長く開催し、2019年にはPGAツアーのZOZOチャンピオンシップの舞台となった習志野CCは現在はアコーディアゴルフの傘下に。
オリンピックがリオで112年ぶり復活、稲見萌寧が東京で初の銀メダル獲得
世界的な新型コロナウイルスのパンデミックで1年遅れで開催された東京オリンピック。ゴルフは、前回のリオ・オリンピックで112年ぶりに復活し、その2回目である。
近代オリンピックは、1986年に開催。その第2回大会のパリ五輪のときにゴルフも採用された。そして1904年のセントルイス五輪のあと不採用され、リオ五輪での復活となったのである。
コースは、霞ヶ関カンツリー倶楽部で、男女ともに無観客開催となった。
男子では、松山英樹と星野陸也が出場し、松山は惜しくも3位の銅メダルをかけてのプレーオフに敗れた。3位決定戦の7人によるプレーオフ。ローリー・マキロイは「3位になるために、こんなに必死に戦ったことは初めて」という熱戦だった。松山は、直前にコロナを患い、完治のあとの出場で試合勘も体調も万全とはいえなかった。
そして女子の部門では、稲見萌寧と畑岡奈紗が出場。稲見が、銀メダルを獲得した。稲見は、今季絶好調で、その勢いがそのまま五輪でも発揮された。稲見の銀メダル獲得で、さらに女子ツアーが盛り上がっている。
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先の東京オリンピックで日本人初の銀メダルを獲得した稲見萌寧。
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女子の金メダリストは米国のネリー・コルダ。銅メダルは稲見とプレーオフをして敗れたニュージランドのリディア・コー。
未来への提言
「楽しむゴルフ」と「競技ゴルフ」明確な棲み分けが求められる時代に
これからは、ゴルフが「するスポーツ」と「観るスポーツ」の色分けを明快にしないといけないと思う。「するスポーツ」の頂点がプロトーナメントではないという考えである。現在の米ツアーがその方向に進んでいるように、プロのイベントは「観る重視」である。まるで曲芸のような技術のぶつかり合い。コースも、観るだけでわかる奇抜なデザイン。つまり映像や視覚を通してダイナミックにならなければ面白くない。そして一般アマチュアは、自分たちのゴルフを楽しむ。プロは、自分たちができそうもない状況をやってのける風景がみえるというイベントづくりが必要だと思う。
そのためには、かなり極端な改革がなければいけないだろうし、そうあって欲しいと思う。
プロゴルフ界は、もっとグローバル化を加速し、日本ツアーから世界へ向かう階段づくりとシステムが必要になるだろう。
実力を備えたスター選手は、どの時代にも必ず現れるはずだ。その環境設定、舞台設定を改革しないと同じことの繰り返しになる。
女子プロゴルフ協会が、映像を重視し放映権を協会が保持しようとしていることも、そのひとつである。男子とともに、株式会社化してダイナミックな改革が必要になってくるはずだ。
楽しむゴルフ。競技ゴルフ。プロフェッショナルらしさを存分に引き出せるゴルフトーナメントと選手……。そういう棲み分けが必要となってくるはずだ。
文・三田村昌鳳
写真協力・日本プロゴルフ殿堂、神戸ゴルフクラブ70年史、日本プロゴルフ協会70年史、日本ゴルフ協会70年史、JGA GOLF MUSEUM 公式ガイドブック、日本女子プロゴルフ協会50の歩み


