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日本のゴルフ120年『過去・現在・未来』日本のゴルフの始まりから、2020東京五輪ゴルフまで

ゴルフトゥデイ創刊30周年特別企画

2021/11/13 ゴルフサプリ編集部

日本のゴルフ120年 過去・現在・未来

近代オリンンピックが始まったのが1896年。第2回パリ大会でゴルフが競技として採用され、8年後1904年のセントルイス大会でもメダリスト・ゴルファーが存在した。そしてその1年前に日本では初めてゴルフ場が建設され、そこから日本のゴルフの歴史はスタートした。

GOLF TODAY本誌593号/22~27ページ

1903年~1945年 戦前

1903年六甲に神戸ゴルフ倶楽部オープン

アーサー・グルームは、外国人居留区内にあったKRAC(神戸レガッタ&アスレチッククラブ)と神戸倶楽部のメンバーで、アウトドアが大好きだった。そして六甲山に別荘を自らの手で開拓し建てた。仲間たちが集まって酒を酌み交わすと話題がゴルフに集まった。そこで「そんなに面白いのならコースを作ろう」と、1901年に4ホールを自分で造ったのが、日本のゴルフの始まりとなった。いまでも神戸ゴルフ倶楽部内に、当時コースを造成したときの用具の一部が展示されているが、開拓・造成が容易ではないことが伺われる。

その2年後の1903年には、9ホールとなり「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生したのである。当時は、駕籠で麓から山頂にあるゴルフコースへ行き、プレーをしていた。

ところが12月から3月までの冬の時期には六甲山頂は雪が積もるなどでプレーができないということで、1095年に横屋ゴルフアソシエーションを作ったのが、日本で2番目のコースである。

日本のゴルフ120年 過去・現在・未来
現在の神戸ゴルフ倶楽部のクラブハウス。昨年には当時使用していたサンドグリーンなども復元された。
日本のゴルフ120年 過去・現在・未来

海外留学でゴルフを覚えたアマチュアが黎明期を引っ張る

日本アマチュア選手権は、もともとは神戸ゴルフ倶楽部と根岸競馬場内(トラック内のフィールド=現在は、根岸森林公園)にあったニッポン・レーシングクラブ・ゴルフィング・アソシエーションとの対抗戦である。1907年が第1回で、1917年まで続いていた。駒沢に東京ゴルフ倶楽部ができて、対抗戦が様変わりし、1918年、日本人ゴルファー井上信が優勝。続いて川崎肇が優勝した。そして1924年10月17日に、ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA)が創立したことから、日本アマチュアゴルフ選手権になったいきさつがある。

東京・駒沢の東京ゴルフ倶楽部に7倶楽部の代表が参集して創立。7倶楽部は、神戸ゴルフ倶楽部、根岸ニッポン・レーシングクラブ・ゴルフィング・アソシエーション、東京ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフ倶楽部、舞子カントリー倶楽部、程ヶ谷カントリー倶楽部、甲南ゴルフ倶楽部であり、各代表には、外国人が6名。そして大谷光明、西村貫一、南郷三郎、井上信、伊藤長蔵の日本人が5名いた。大谷は、西本願寺21世門主の明如猊下の三男に生まれ、1906年から3年間英国留学時にゴルフを覚え、日本で初めてR&Aのルールブックを個人で日本語翻訳を出版している。

その後、設計家アリソン招聘に尽力し、自らもコース設計をした人物である。そして、伊藤長蔵も英国・スコットランドのコースを100以上プレーし、日本初のゴルフ雑誌「阪神ゴルフ」その後「ゴルフドム」を発刊。廣野ゴルフ倶楽部の造成にも活躍している。

当時は「会長制なし。東京ゴルフ倶楽部を代表して出席した大谷光明は、数年前から組織作りを計画していた。当時の競技規則は英文のものを適用していたため十分に理解できず、反則行為となってペナルティを課せられるケースが多かった。日本のゴルフは日本人の手で倶楽部の運営、規則、作法を構築したいと考えていた。これが組織作りのきっかけになった。

JGAは「日本のゴルフクラブを統轄する団体で、外国に対して日本を代表する機関になる。」と記載されている。

日本アマチュアゴルフ選手権として初の優勝者は、1925年に川崎肇だった。3度目の優勝である。

その後、英文のJapanGolfAssociationから日本ゴルフ協会と日本語名となっているが、年代不詳である。おそらく、戦時中にゴルフ用語もすべて邦語にしたときがきっかけだったと思う。

留学などで海外でゴルフを身に着けたアマチュアゴルファーが、日本にゴルフを定着させるべく東奔西走していた時代だった。

日本のゴルフ120年 過去・現在・未来

日本のプロ第1号のパイオニア福井覚治は38歳で早逝

生家の隣にできた横屋ゴルフアソシエーションがきっかけでゴルフと出会った12歳の福井覚治は、コース設立に尽力したロビンソンの専属キャディとなり、メキメキとゴルフの腕前をあげた。成長した福井は、その後、猪名川に移る鳴尾ゴルフ倶楽部や廣野ゴルフ倶楽部の土地探しにも協力している。

福井は、舞子(現・垂水)カントリー倶楽部(当初9ホール)ができると、キャディマスター兼務のプロゴルファーとなった。初の日本人プロゴルファーの誕生である。

当時は、アマチュアの大会ばかりで、1926年に、ようやくプロゴルファーの大会が始まった。茨木、舞子、甲南、鳴尾の関西4倶楽部が主催、大阪毎日新聞社の後援で開催された。それが後の日本プロゴルフ選手権だ。勝者は、福井の弟子の宮本留吉で、福井はプレーオフで敗れて2位となっている。同年11月には日本初のオープン競技、関西オープンが始まり、福井が優勝を飾った。この時34歳。これが生涯1度の優勝だった。それというのも、福井は、関西オープン優勝の3年後、38歳で亡くなったからだ。

日本のゴルフ120年 過去・現在・未来

第1回日本オープンの勝者はアマチュアの赤星六郎

はじめにアマチュアありき、という言葉がある。1927年、程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された第1回日本オープンの優勝者・赤星六郎もアマチュアゴルファーだった。

2位の浅見緑蔵(プロ)とは、なんと10打の差をつけての圧勝だった。

当時のプロゴルファー、宮本留吉も安田幸吉も「ゴルフの先生は、赤星六郎」だったと言っている。それというのも、赤星は、米国プリンストン大学ゴルフ部で大活躍をして帰国した人物だからである。言ってみれば、本場の本格的なゴルフをマスターしていたからだ。

その赤星の影響は大きい。後に、プロゴルファー育成に尽力し、プロを海外遠征させるべく働きかけている。まだ台湾の陳清水を日本に呼んで育成。その後の台湾プロゴルファーの系譜の発端となった。そして、兄の四郎ともにコース設計にも活躍しているのである。赤星の存在がなければ、日本のプロゴルファー、アマチュアゴルファーの育成も遅れただろうし、素晴らしいコースも誕生しなかっただろう。

日本のゴルフ120年 過去・現在・未来

1946年~2000年 戦後

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