日本のゴルフ120年『過去・現在・未来』日本のゴルフの始まりから、2020東京五輪ゴルフまで
ゴルフトゥデイ創刊30周年特別企画
1946年~2000年 戦後
1957年日本開催のカナダカップで中村寅吉が優勝し〝第1次ゴルフブーム〞に
ゴルフ大衆化。日本第一期ゴルフブームのきっかけとなったのが、1957年。霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催された第5回カナダカップ(現・ワールドカップ)である。
国を代表する国際的な唯一の大会で日本選手が参戦したのは、第4回大会からで、林由郎、石井迪夫が出場している。
世界30カ国60名が参加。日本初の国際イベント。中村寅吉は、大会新記録の14アンダー、274で個人優勝。そして団体優勝。また、1966年に再度日本の東京よみうりCCでも開催。そのときは、杉本英世、河野光隆が出場し杉本はプレーオフに敗れ個人2位。
その大会と中村・小野の活躍が日本のゴルフ界に火をつけた。ゴルフ場が次々に開発され、用品用具も闊達に販売されるようになった。また小津安二郎の映画にも、ゴルフシーンが頻繁にでて来た。サラリーマンが、ゴルフをし、デパートの屋上にも練習場ができて、ゴルフブームを思わせるシーンである。面白いことに、霞ヶ関のカナダカップでは、新聞記事を現地から送る手立てとして伝書鳩が使われていた。いまのように電話・ファックス・メールのない時代だったからだ。
ワールドカップは、2年に1回開催され、その後も尾崎将司、青木功などその時代のトッププロが参加していた。
そして45年後の2002年に丸山茂樹・伊澤利光の2人が参加して、見事に団体優勝を果たしている。
その後、2005年から女子のワールドカップも開催され、南アフリカで開催された第1回大会では、宮里藍・北田瑠衣が見事に団体優勝している。しかし、残念ながら2008年で大会は中止された。
いまのように世界に羽ばたく大会がない時代、ワールドカップは唯一の大きな存在だったのである。
樋口久子が全米女子プロ優勝 日本人で初のメジャータイトル獲得
1967年に、日本プロゴルフ協会女子部として設立された日本女子プロゴルフ協会。そのころ、試合が年間で2試合しかなかった。日本女子プロ選手権と日本女子オープン(当時、TBS女子オープン)。試合数が少ない時代に、修行目的で、米女子ツアーに参戦したのが、樋口久子と佐々木マサ子だった。
1970年。いまから51年前のことである。大阪万博が開催した年でもある。
その樋口が、全米女子プロに優勝したのが、1977年。米女子ツアー参戦8年目のことだった(その前年には、イギリスのコルゲート欧州女子オープンで初優勝)。
樋口の米ツアー遠征が、日本女子プロ界にとって開拓時代、先駆者だとすれば、1980年代の岡本綾子(1987年賞金女王)の活躍は、日本女子の実力を示した時代といえよう。
樋口の時代は、1ドルが308円。岡本の時は、240円から130円に急激に変動した時代。ようやく男女雇用機会均等法が85年に成立した。
藍ちゃんこと宮里藍の登場で女子プロブームが到来!
宮里藍が、2001年に東北高校進学し、17歳で、ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンで、アマチュア選手として優勝。それをきっかけに「藍ちゃん旋風」が巻き起こった。
現在の女子プロブームの火付け役は、紛れもなく宮里藍の活躍と存在だろう。女子選手は、ジュニア時代から頭角を現し、ナショナルチームを経て、プロゴルファーとして活躍という流れが主流である。
宮里のライバルとして横峯さくらがいて、このところ活躍著しいところでは、勝みなみ、畑岡奈紗、稲見萌寧、小祝さくらなどなど枚挙にいとまがない。
道具の進化をはじめジュニア環境が様変わりし、1998年生まれの黄金世代、そして2000年度生まれを中心としたミレニアム世代の活躍が目覚ましい。
AONがプロツアーを席巻!その後には学士プロの時代に
日本では、60年代から70年代にかけて、杉本英世、河野高明、安田春雄という「和製ビッグスリー」と呼ばれる若手選手が活躍した。ちなみに杉本英世は、日本人選手初の米ツアーテストを受けてライセンスを取得しているし、河野高明は、マスターズで12位となり、“リトル河野”と呼ばれ親しまれた。
そして70年代に入って一気にプロトーナメントが急増した背景が、ジャンボ尾崎の登場だった。プロ野球選手から転向した尾崎は、それまでの日本のプロゴルファーにはないアスリート感覚とタレント性の高い存在、何よりもずば抜けた飛距離で一躍スターダムに登りつめた。その後、青木功が活躍し「AO時代」があり、さらに中嶋常幸が加わる「AON時代」となった。事実、1983年の日本オープンで青木功が優勝して以来、1994年に尾崎が優勝する12年間で、AONの優勝が、なんと10回もあった。尾崎が通算5回(1974年も含む)。青木が、2回。中嶋が、4回である。
そのAONと同時に、いわゆる学士プロの活躍もある。三羽烏と呼ばれた倉本昌弘、湯原信光、羽川豊である。湯原は、理論派。羽川は左打ちプロとして大成し、倉本は天才と呼ばれていた。
以来、大学ゴルフ部出身のプロゴルファーがどんどん増えてくる時代になった。日本のプロゴルファーの流れを辿ると、キャディを経てプロになる時代。別のスポーツからの転向。そして大学ゴルフ部出身、あるいはゴルフ英才教育からのプロゴルファーである。近年では、ほとんどがジュニアを経て大学ゴルフ部出身者となっている。
バブル景気でゴルフ場建設ラッシュ 会員権にまつわる事件も
バブル時代。1985年から1991年までを、そう呼んでいる。ゴルフ界も大きな影響を受けた。ゴルフ場の会員権が、3億円ということもあった。笑い話で有名なのが、外資系の日本支社の支社長が、ゴルフの会員権を買いたいと本社に打診した。そして3億円だというと「18ホールのゴルフ場を買うのか?」と聞き返したという。
数千万円の会員権が当たり前の時代だった。またその当時は、当然、ゴルフ場開発ラッシュにもなった。ともかく、僻地でも開発し、会員権を販売すれば、いくらでも売れるという時代である。
このバブル時代は、ゴルフ界にとっても明と暗の部分が際立った。
明の部分では、ジャック・ニクラス、ピート・ダイ、ロバート・トレント・ジュニア。マイケル・ポーレットなどなど、世界の名設計家がデザインしたコースが続出したことである。
一方では、バカ高い会員権がバブルが弾けたとともに急落し、投資目的で購入した人たちに大打撃を与えたことである。また、もちろん事件もあった。
1985年豊田商事の永野一男が殺害された。その豊田商事も少なからずゴルフ場に関連した詐欺事件も含まれていた。さらに、茨城県高萩市の茨城カントリークラブ事件があった。会員人数を2800名限定として販売していたにも関わらず、実際は、5万2000人以上に売りさばいて金銭を集め、関連会社に横流しした事件である。
クラブはパーシモン、スチール時代からメタル、チタン時代に
クラブはパーシモン、スチール時代からメタル、チタン時代にゴルフクラブの進化は、大別するとヒッコリー時代。パーシモン、スチール時代。そしてメタル時代。チタン時代と進化している。
ヒッコリーは、シャフトが主にクルミの木でできたクラブ。そこにウッドヘッドとアイアンヘッドをつけたものだ。これが1900年初頭まで続いた。そしてスチールシャフトが生まれたのが、1930年頃だ。
そこでスイング論も大きく変わり、さらにヘッドがパーシモン(柿の木)のデザインと性能が充実したのが、1950年代。主流は、マグレガー製だった。
さらにシャフトで、スチールからカーボンが登場してきたのが、1974年ごろだ。その後、カーボングラファイトのシャフトも成熟期を迎え現在に至る。
そして1980年代になって、メタルヘッドの時代がやってくる。日本でいち早く取り入れたひとりが、ジャンボ尾崎だった。ティペグを高めに刺して、スピン量と弾道の高さを調節し飛距離を生んだ。
さらにヘッド体積もどんどん増えて、いまでは460㎤だが、最初は、230、260㎤がデカイと言われていた。
メタルヘッドからチタンに変わったことで、素材が軽量ゆえに体積を大きくすることができたのである。それによって、スイングの変化がともなった。
2001年~未来
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